四百年前の時計職人と地図
航海は死の旅物語


 
四百年前の大航海時代は遭難や栄養失調で多くの船乗りを亡くした。
早急な解決策として莫大な、懸賞金を出して競わせた。
ここに時計職人と天文学者の壮絶な先陣争そいの物語が生まれた。
(一秒の世界と地図)

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富山湾と黒部川湧水群
黒部川の河口付近の空からの写真です。奥の方に見える建物あたり(YKK工場)が生地鼻です。
ここは名水100選にも選ばれ、全国から多くの湧水マニアで賑わいます。
注…(『便利なホームページの地図』でどのあたりか確認してみましょう)
富山湾と黒部川湧水群

撮影したときの真下の情景写真です。車や人物もごみ粒のように写っています。バルーンをあげて撮りましたのでケーブルまで写ってしまいました。
人もかすかに写っています
人もかすかに写っています

バルーンから撮影
バルーンから撮影

ガスをいれて浮き上がる瞬間です。
ガスをいれて浮き上がる瞬間です。

一服タイム そろそろ〃
カーナビさえあればここがどこか一発でわかるなぁ、www なかったらどうする?
地図もなかったらどうする?
一服どころでないぞ〜www
一服タイム そろそろ〃

地図と宇宙の星、について考えてみましょう。
デジカメで、星空を時間をかけて撮ると、動いているよう撮影されるから、やはり動いているのでしょうね。
1日に地球の回りを1回転するとして、360度ワル24時間=15度
1時間で15度も動いているんだ、15度も(-_-)。
1時間は3600秒なのでワッテみると1秒間で角度で15秒進むことになりました。
逆に地球上でみてみると4万キロmで1周するとして計算して、なんとカチッと1秒間で約462m進むことになりました。
地球はこんなにも一生懸命走っているんです。 
 
 
星は1時間でどのくらい動く?
星は1時間でどのくらい動く?

地球は回っている
時間にして20分間(角度で5度)で、このくらい回転しています。
逆に地球上では550kmくらい回転していることになります(一応赤道付近で)。
40000Km×5度÷360度=約550Km
日本付近では400〜450kmくらいかな..
緯度60度のところではちょうど半分の275kmと遅くなるな。
緯度90度のところではゼロkmでまったく動かない(正確にはほんのちょっとだけ動いている、微妙に...)
地球は回っている

地球を経線と緯線で15度毎に描いて見てました。また地球1周を24時間として1時間単位で描いて見ても、同じ線で同じ位置に表されます。
地球を描く基準の区切り方はどちらでもよいことになります
地球の経線緯線が、正確にわかっていれば、自分の位置が解かる。
または、正確な時計があれば、ピンポイントで自分の位置が出ることになりますね。
時間がわかれば位置がわかる
時間がわかれば位置がわかる

正確な時計とは?一服ww〜
時計が無かったころは大変だったろうなぁ
コンパス片手の時代もあったろうにww〜
ましてや嵐の中での航海は、陸地が見えない、太陽や星も見えない!なかで命がけの旅だったろうにww〜
 
正確な時計とは?一服ww〜

1735年代になって作られた海上時計です。当時時計職人だったジョン.ハリソンが作った時計です。
船の上でも絶対狂わない時計をつくって、世間をアッと言わしめた。しかし、その道のプロ学識者のなかでは、諸手をあげて絶賛する者も多かったが、執拗に疑問視し続ける者もいた。
(時計職人に加え元大工職人だったからか、いろんな人から妨害に遭い、特に天文学者イジメに遭ったらしく苦難の人生を歩く事になるのです。)
それまでは小型の時計が、各種登場していたがどれも、止まるたんびにネジを巻き、正確さにかけたものだった(1日に15分程度の狂いはザラだった)。
「狂わない時計」なんて無理〜とプロ学識者の一般的見解だったようです。いろんな人が賞金ほしさに??いろんな方法で論文を発表し、我先に、と投稿したらしい。
訳のわからない論文山積みするほど投函されていたようです、そのためイギリス王室の経度評議員会はくだらない論文を診るたんびにウンザリした日々を送っていたのです。
(その中で、例えば、ニュートンの月や星、太陽を元にして距離をはかる方法など...は陸上では非常に有効だったのですが、ぐらぐら揺れる船上では測りにくく、賞金をもらうまでには至らなかった...また星や太陽、月を測るのに相当熟練を要するため、また目を失明したり首痛になってしまう等で評判がイマイチだったようです
天文学者のいじめ
天文学者のいじめ

4百年前は??
四百数十年前はまだアメリカ大陸を勘違いしてインドだと思っていた時代.から始まる物語りです。この「経度への挑戦」をたたき台にして、気まぐれ散策のたびにでてみましょう(この本の表紙は無断掲載ですゴメンナサイ)。
 
4百年前は??

始めて経線緯線のはいった地図はいつごろの年代かいろいろ資料を探してみると、ずう〜と遡ること、なんと2世紀に、もう出来ていたのです。
ヒッパルコスの考案した「経線緯線」を導入して、プトレマイオス(2世紀)が、この様なきれいな地図を作っていたのです。
特にプトレマイオス自身地理学者で、地球は球である、と信じていたのでこの図法になったものと多いに推測されます。
すなわち、ボンヌ図法に似た正距円錐図法を用いているからです(地球を、球と考え、円錐をかぶせる投影方法だから)
このころは地動説、天動説がおおいに議論され、地球はまっ平ら説も根強く残っていた。
ただプトレマイオス自身はアリストテレスと同様地動説(地球は太陽の周りを回る説)を否定し、天動説を肯定するという過ちをおかした功罪があるが...
なお、この地図は実際に測ったものでなく、旅行者の報告を元にして書き込んだものにすぎないので、現在の地図とえらく、異なりますね。
なお、古代ギリシアの地理学者プトレマイオスは通称トレミー(Ptolemy)と言う芸名と言うかペンネームと言う通称名を持っていました。
日本の地図やさんは、トレミー図法のようにトレミー名で通っています。
(この地図も無断掲載ですゴメンナサイ)
 
はじめて経緯線を地図に〜
はじめて経緯線を地図に〜

まず地球の大きさを
地球が丸いと言うことは現在だれでも知っています。
「じゃ〜どうやってまるい、と証明するんだ」となると頭で解かっていても、現場で実際測量するとなると大変なことです。
かの有名なピタゴラス(570B.C?〜497?B.C)が最初に「地球は球体に違いない」、と唱え、これにアリストテレス(384B.C?〜322?B.C)がいくつかの根拠をあげて、より論理的に説明しています。
南北方向に向かうと北極星の角度が違って見える(北に向かうほど高くなる等...)
.月食のとき地球の影が丸い円弧になっている...
.沖合いに浮かぶ船はマストしか見えないなど...
このように論理的に解かっていてもギリシャの人たちは実際に測って証明しょうとしませんでした。
まず地球の大きさを

しかし、右図の方法を思いついて、実際に現地に出向き、距離と角度を測り、地球の大きさを測ってしまった人が現れたのです。
その人の名は地中海に面したエジプトのアレクサンドリアという港町に住んでいたエラストテネス(276B.C〜196B.C)でした。
エラストテネスはこの町の図書館長時代、6月22日近くになると、井戸の底まで太陽が差し込む、という話を聞いていたので、約900Kmの厳しい炎天下の中アレクサンドリア〜シエネまでの距離を実測したのです。
出来るだけまっすぐに、ガケがあっても、街に出くわしても、出来るだけまっすぐ測り、ようやく測り終えたのです。
6月22日の同時刻(太陽が井戸の底を照らす)に、アレクサンドリアで石の塔の影の傾き、を測ったことは言うまでもありません。
 
その結果  アレクサンドリアーシエネ間 890Km、角度は7度12分の実測地をようやく得ることが出来た。
 
 
 
現場で距離と角度を測って証明
現場で距離と角度を測って証明

地球の大きさ?
この実測値から、地球の大きさ(円周)を得たのです。
 
地球の大きさ(円周)=360度÷7度12分×890Km=44500Kmの結果を得た。
当時サラリーマンだったエラストテネスとしては満足な測量機器を自腹で揃えられる訳もなかったであろうに、推測するに、人力とラクダと貧弱な機材で、ともかく、この結果を得たのです。
これは現在の地球の大きさ(円周)40000Kmと比べても10パーセントしかズレていないことは驚くべきことです。
地球の大きさ?

中世の教会の指導者は、せっかく苦労して作り上げた経線緯線で描いたプトレマイオスの世界を否定してしまった、すなわち地球は丸いはずがない、丸い理論を論ずるだけでも犯罪であると、決め付けた
逆に宗教的つじつまを合わせるために、現実の世界に無い地図(右図のような)を作って、しかも宗教の名のもとに一般市民に押し付けたのです。宗教的弾圧が始まったのです。
例えば遠くの国には怪獣がウヨウヨしていて、右図のような人間が住んでいるとか、なにせ恐怖感を植えつけさせたのです。
このような考えを徹底させた為、千年以上も自然科学的な発展はありませんでした。むしろ衰退していったのです。
宗教的にあくまでも地球が全宇宙の中心である、と言う聖書の教えから(プトレマイオスも天動説を唱えていたため聖書の教えと微妙に似ていたので)プトレマイオスには締め付けは若干緩やかであったようです。
それに比べ地動説を唱えたガリレオには厳しい処分が待っていた。
(また無断掲載ゴメンナサーイ)
 
しかし、これより千年封建社会へ
しかし、これより千年封建社会へ

トレミー(プトレマイオス)図の復活
トレミー図法が千年の間、日の目に合うことがありませんでしたが、鎖国状態の西欧世界にも文明国(ノルマン、蒙古など)からの侵略の嵐に合い領土を奪われ、やっと目が覚めたのです。
紀元15世紀になると「トレミーの地理書」が西欧にも伝わり、ラテン語に翻訳、そして研究を重ねながらプトレマイオス図(2世紀に作成)の間違いを修正したり、グリーンランドを書き加えたりして徐々に正確な地図になっていった。それに伴って製版技術も発達して、大量印刷の道も開けてきた。
(なお右図は最新のトレミー図です)。
トレミー(プトレマイオス)図の復活

13世紀に入ると、侵略され奪われた領土を奪還する機運が高まりポルトガルが13世紀後半に、スペインが15世紀後半にそれぞサラセン人から領土を奪え返し、国家統一を成し遂げたのです。
こうなると、もっともっと領土が欲しくなり、海の向こうへと目を向け始め、それに伴い大型船の運搬技術も向上していった。
向かい風の時は人力で、オールを漕いで進むしかなかった帆船を改良し、向かい風にも進む帆船の改良と技術を身につけていった。
これで未知の海にも漕ぎ出すことが可能となり南へ北へと侵略と略奪の航海へ旅立ったのです。
目が覚めた西欧www
目が覚めた西欧www

コロンブスの勘違い
コロンブスは、なぜアメリカ大陸をインドと思い込んだのでしょう。
当時の航海で100Kmくらいの間違いも、まあ、あり得る話しかもしれないが、なんと距離にして15,000Kmも短いカリブ海の諸島をインドと思い込んだのです。大げさにいえば地球の半周分勘違いしていたのです。信じられますか?
しかも、コロンブスは亡くなるまで、ここがアジアの一部だと信じ、疑うことが無かったようです。
コロンブス(1446〜1506)はジェノバ生まれの優秀な航海者でスペインのイザベラ女王に「アジアに行けば香料黄金がザクザクあるから」と売り込み、この壮大な計画がイザベラ女王の援助の元に実現した。
1492年から計4回の航海で、香料黄金を一粒たりとも、持って帰る事は出来なかった。ここがアジアでもないインドでもないカリブ海の島々だったからです。
また植民地経営にも失敗して、その2年後に、失意の内に亡くなったのです。
 
 
 
 
 
 
コロンブスの勘違い

間違いの原因は航海用の地図にあったようです。もし右図のようなイメージの地図を持って航海したら、どうでしょう。
みなさんも思い込んでしまうのではないのでしょうか。コロンブスは念にも地理学者のトスカネリにも相談していたのです。
だからコロンブスは、ことさら思い込んでしまったのです。右の円錐に描かれた地図のイメージを思い描いていたのです。
ちょうどこの時代になると東回りの航路は開拓されつつあったので、どうしても西回りの開拓の必要がありました。
そこでプトレマイオス図(2世紀に出来た地図)の端々を、つまんでつなぎ合わせて見ると右図のイメージの世界が生まれたのです。
西回りで行けばアジア、ジパング、インドは目の先であった(太平洋のない、アメリカなどあるはずがない世界)。
しかしプトレマイオスの地図は現地で測量したものでなく、ただそこへ行った事の有る人たちの話を聞いて描いた地図のため、アジアがおおげさに言えば地球半分ズレて描いてあったのです。
その原因のもう一つに地図屋さんが、「地球半分空白の地図」ではカッコがつかなかったので、アジアを地球半分伸ばして空白を埋めた、とも考えられます(美的感覚で描いた可能性も有り得ますね)。
 
 
 
なぜコロンブスは間違った?
なぜコロンブスは間違った?

コロンブスの経路
前の円錐のイラスト地図と比べて、地図は正確でなければならない事が良くわかりなすね。
無断掲載ですゴメンナサーイ、ゴメンナサイ
コロンブスの経路

コロンブスのアメリカ大陸のカリブ海の島々の発見によって、いよいよ大航海時代へと突入して行くのですが、まさに命がけの旅だったのです。皆さんも2004年「海の貴婦人」海王丸が富山港で座礁したことは記憶に新しい事と思います。
全国各地に甚大な被害をもたらした台風23号は瞬間風速60m級で海王丸に襲いかかり、錨もひきちぎらんばかりに引きずり、消波堤(ブロック)に激突座礁したのです。
IT情報化社会の現代でさへこの有様です。ましてや天気予報やカーナビ、いやGPS機器もない時代、またカンズメ、インスタントラーメンもない大航海時代は悲惨でした。
史上初の世界一周を成し遂げた フィルディナアンド.マゼラン(1480?〜1521)は1519年スペイン国王の援助を得て、五隻の艦隊で出発、265名だったが、栄養失調や暴風雨にあい漂流、3年後帰ってこれたのは、たったの18名ばかりだった。マゼランも行く先々で争いを起こし、巻き込まれ航海途中で死んでいる。
 
 
大航海の帆船時代は死の旅だった
大航海の帆船時代は死の旅だった

旗艦アソシエーション号の悲劇
1707年10月22日イギリス艦隊が霧の夜、経度の読み違いから、踏み石のような岩盤の点在する危険水域に向かっていた。
気がついた時、もうどうする事も出来なかった。次々と座礁!5隻のうち4隻が沈没し海のモクズと化したのです。乗組員2000名のうち生きて海岸に打ち上げられたのが、たった2名だけだった。その一人がシャペル提督だった。
特に前日、ある船員から「自分なりに計算すると危険水域に突入しそうです、今一度確認を!」と進言した船員はこともあろうに、軍規違反でその場で絞首刑にされてしまった。
砂浜に打ちあげられ、息も絶え絶えのシャペル提督も、キラキラ光る指輪に目がくらんだ地元の女の人に、息の根を留められてしまった。
(後日その女の人は、教会で全てを話し、司祭様に懺悔を乞い指輪を差し出している)。
旗艦アソシエーション号の悲劇

もし地図が正確だったら、もし海上時計を持っていたら、ジョン.ハリソンの作った絶対狂わない時計を持っていたら、暴風雨の海原を右往左往する事はなかったろう。
1740年9月センチュリオン号は南太平洋へ向けて出発した時、ハリソンの時計は自宅にあり、改良版も出来上がり、さらなる改善に取り組んでいて、せっかくの素晴らしい時計は埋もれたままだった。
1741年1月に大西洋から太平洋に回り込むホーン岬あたりから猛烈な暴風雨、雪みぞれが襲ってきた。帆はボロボロになり、船員は吹き飛ばされ骨折、そのうえ栄養失調(壊血病)のため毎日六〜八人が死んで行った。暴風雨は二ヵ月続いた。
残りの五隻はセンチュリオン号からはぐれ、どうなったかわからない。ともかく北へ進んだ。
進んだつもりだった、しかし進んでいなかった。すさましい潮流に押し流されていたのです。こうなると緯度は星や太陽でわかるとして経度は?...もうわからなくなった。西の方向か東の方向へ進むか、わからなかった。あっちへ行ったり戻ってみたり、そうしている間もどんどん船員が死んで行った。あせって決断してたどり着いた所がスペイン領だった。マズイ!今来た道を引き返したのです(実は目的の島は目の先にあったのです)。
アンソン提督は有能な航海者であったがあまりにも時間を掛け過ぎてしまった。
500名の乗組員のうち、生き残ったのは半数に満たなかった。
 
暴風雨が2ヶ月、ここはどこだ〜
暴風雨が2ヶ月、ここはどこだ〜

ガリレオの振子?時計発見?
このように次から次へと海難事故が起こり、船乗りは死んで行った。
経度測定の解決策を見出すことが国を挙げての重要課題となっていたが賞金に結びつくような論文は陽として出てこなかった。
この時代ガリレオは医学生で、教会の聖堂から吊るされたランプをぼんやり眺めていた。
左右に揺れるランプを見て、振子時計を作りたいと生涯思い続けていましたが、結局形にすることはできなかった。
しかし、ほかの方法で経緯度測定に活路を開いた功績によりオランダ政府より[金鎖」を与えられている。
1610年、ガリレオ.ガリレイは自分で作った望遠鏡で、自宅のバルコニーから長年捜し求めていた天体の時計を発見した
木星のまわりをグルグル回る4個の衛星を発見、これに活路を見出したのです。衛星の食は1年に1000回起こるから、この食を観測し記録して行けば、これが天体の正確な時計となる、と。
この方法は、陸上では非常に有効で、望遠鏡のさらなる改良により地図作りに多いに貢献することになります。
しかし船の上では、望遠鏡の倍率があまりにもでかいので、木星を捕らえることが非常にむずかしかった。セキをしただけで視野からなくなってしまった、ゴホン。
結局、船乗りには広く受け入れられることはなかった。
しかしガリレオはこの衛星に、生涯こだわり続け、年老いて目が弱まるまで観測に執念を燃やし続けた(1642年ガリレオはこの世を去った)。
 
 
ガリレオの振子?時計発見?

ガリレオ.ガリレイのアイデアが、一六五〇年代になって、ようやく陸上での地図作りに、非常に便利で有効あることがわかってきたのです。特に測量屋さんや地図屋さんが彼の観測データーや技術を使って正確な地図を作り始めたのです。
この四つの衛星の食が何時何分何秒に起こるか、長年苦労して観測し続けたガリレオのデーターが生きてきたのです。このデーターを基にして経緯度を決定して行ったのです。
それまでの地図は正確な経線を求めるすべを持ってなかったのです。ましてや一日15分も狂うような時計の時代で、あてになりませんでした(距離にして四〇〇Kmくらいズレる)。
ガリレオの観測データーを基にすれば一秒単位で確実に経線位置を決定できたのです。
これまでの地図は、自分の国を大きく描き、隣国の敵国は貧弱に描くのが一般的だったが、天球によって地球の大きさを正確に定めることが出来たので、ごまかしようも無くなってしまった。
フランスのルイ十四世は、新しい地図をみて自分の国があまりにも小さいので測量屋、地図屋、天文学者に領土を奪われたぁ〜としきりに嘆きました。
木星の衛星
木星の衛星

カッシニ、ホイヘンス、レーメル
ガリレオの方法が有効とわかり、職人肌の測量屋さん地図屋さんは、もっと正確な食予測がほしい!もっと正確な地図を作りたい!と言い出した。
当時、国境付近ではまだまだどこの国だか分からないような不安定な状態にあったため、世論に後押しされる形で次から次へと天文台が出来、多くの人がその職にありついた。
ボローニャ大学教授カッシニーは数多くの観測をもとに当時としては最も正確な運行表を出版した。この天体暦の功績が評判となり、パリの太陽王ルイ十四世の宮廷に招かれている。
そしてパリ天文台建設にあたり天文台長に就任してしている。
またオランダのクリスティアン.ホイヘンスもフランスに招待されアカデミーの創立委員となっている。
またデンマークのローエ.レーメルもパリ天文台の客員として招かれていた時、驚くような発見をした。太陽をまわる木星の衛星四つの軌道は一定の軌道の数式で表わせるはずが、どうもズレて来る。おかしい!地球から遠い時と、一番近い時とではズレかたが違う、どうも光の速度のセイだと説明してみんなを驚かせた。
以前、ガリレオもイタリアの山でテストしてみたがあまりにも距離が短すぎたので光の速度を見出す事が出来なかった。
1676年にレーメルは光の速度を算出した(現在秒速30万kmとされているがそれより、わずかながら小さかった)。
なお現在では299,799,792.458m/秒が世界標準となっている。
カッシニ、ホイヘンス、レーメル

ちょっと横道にそれますが、ちょっとメルカトール図法について、触れてみましょう。
大航海時代に入り、遭難が相次ぎ船乗りは次から次へと死んで行く中、メルカトール(1512〜1594)は何とか地図とコンパスだけで遭難しないで目的地へ行けないものかと考えました。右図のように一定の角度αで進めば目的地へ着ける地図を考案したのです。緯線の間隔を変え調整した図法を思いついたのです。コンパスさえあれば、その都度ズレる角度をαになるよう船の向きを修正すれば簡単に目的地へつくことができた。これが評判となりあっと言う間に船乗りにひろがった。しかし理論的にこの複雑な計算方法を彼は一生明らかにしなかったのです。
積分法によって証明されたのが彼の死後まもない1599年になってエドワード.ライトによって証明された。積分法はメルカトール時代にはまだ世に出ていなかったのでやむを得なかったと思いますね。
メルカトール図法で航海
メルカトール図法で航海

極図法でメルカトールの航路は?
螺旋階段で屋上まで登っていく場合によく似ています。一段登るごとに向きを変え次の階段へ足の向きを直角にしてはみ出さないように、一段毎に向きを修正して登っていきますね。
船も同じです、常に向きを修正しつつ進むことになります。
サッカーボールのような丸い地球上では、螺旋階段と同様、一段一段向きを修正(常に∠αを保ちつつ)しながら遠回りし進むことになります。
球体を平ったい紙に描く場合、必ずどこかが、ゆがんでしまいます。角も距離も面積も合ったものは描けない、やむをえない、どちらかひとつ(又はふたつ)を満足すれば良い。
これがメルカトールの考えであり、赤道上の緯線だけを正しくして、あとは定規で目的地まで線を引いた時の角度αが地球上をどのようにして通っていくか、地球上でもその位置を確実に通ればこの図法の目的が達せられる訳です、これがメルカトール図法です。
メルカトールは緯線の位置を次のような式を発見し、導き出した
Y=Rlogn tan(π/4+φ/2)     
これを常用対数で表すと
Y=R/M log tan(π/4+φ/2)  となります。
例えば 緯度φ=60°の場合
Y=6370Km / 0.43429...tan(180/4+60 / 2)
≒8390Km となり、これを縮尺化すればよい(縮尺1千万分の場合83.9センチで描くことになります)(汚い図面でごめんなさい)
 
 
 
 
 
 
極図法でメルカトールの航路は?

振子時計の発明者の栄誉はクリスティアン.ホイヘンスの頭上に輝いた
1656年はじめて振子時計を作って、振子時計の原理に関する論文「時計」を発表したからである。
ガリレオとは全く違う原理であり、無関係であると断言している。
1660年独自の理論にもとずき2個の海上時計を完成させた。
試験航海で1664年アフリカ西部沖まで行きキチンと船の位置の経度を知ることに役立った。
経度測定の権威となったホイヘンスは1665年振子時計の説明書まで出版しています。
しかしその後の航海では扱いにくさがアッチこっちに出てきて、特に天気が悪いとチャンと動かなくなってしまった。
特に嵐のときには振子の振幅が乱れてどうしょうもなかった。
この振子時計も海上では失敗の烙印を押されたので、何とか代わりになるものないか必死で考えました。
そこで渦巻状ひげぜんまいを考え付き1675年にフランスで特許を取ってしまった。
これが「フックの法則」で有名なイギリス人喧嘩屋ロバート.フックの耳に入った。
「自分のゼンマイの著作権を盗用した」と、フックの逆鱗に触れた。
なにせ彼は喧嘩早く怒りっぽい性格だったので、イギリスの権威王立協会まで引っ張り出し、白黒をはっきりすべく王立協会で対決した。
フックは科学の世界でも、生物の世界でも、また測量の技術をもつ建築家でもあり、その功績は計り知れないくらいであった。その上、ニュートンが論文を発表すれば、喧嘩(理論)を吹っかけ「これは先に考えたもの..云々」と、正当性を主張する理論家でもあった。
結局、王立協会はどちらにも軍杯をあげることができなかった。
そして偉大な科学者フックもホイヘンスも、張り合いながらも、海上時計を作り続けたが、賞金にありつけるような代物を作る事が出来なかった。
「二大科学者でさえ出来なかったのだから、もう時計で経度を測定するなんてむりだろう」と天文学者は喜び、時計方式の欠点をあげつらった。
天文学者に言わせれば経度を知る手がかりは天体である。地上の時計でなく、宇宙のからくりのほうがベストだと..。
 
 
 
振子時計を作ったホイヘンス
振子時計を作ったホイヘンス

ニュートン時計を否定、経度法
ニュートンは72歳になっていた。
1707年に2000名もの船乗りを座礁で亡くしショックを受けていた世情もあり、経度測定の問題に真剣に取り組んで欲しいと船乗りや経済人からの「請願書」が1714年5月に議会に届けられた。
早急に取り組む必要に迫られた経度評議員会はニュートンとエドモンド.ハレーにアドバイスを求めた。
ハレーは南半球の星図を作るためにセント.ヘレナ島へ出張していた。
ニュートンは所見をしたため、委員会の人たちの前で弱った体で朗読した。「正確な時計を使う方法はある、しかし船の上では暑さ寒さ湿度とか重力差と言う理由から、これまで、そのような時計が出来なかった、これからも出現する可能性は低い...」と否定した。
だから天体の星ぼしに助けを求める方法が良い、昼間は太陽と月、夜は月と星の距離を測る「月距法」も引き合いに出している。
1714年7月8日経度法が成立した
そして経度評議員会は財布の紐も任されたのです。
この中で賞金の額まで盛り込まれている。
1等賞  経度差が1/2度以内  2万ポンド(現在の数百万ドル相当)
2等賞  経度差が2/3度以内  1.5万ポンド
3等賞  経度差が1度以内   1万ポンド
経度法によると資金難にあえぐ者に奨励金を出すことも出来ると謳っている。
ニュートンはこのとき王立協会の会長を務めている。
なお、スペインでは1598年にフェリベ3世が経度測定に終身年金を出すと発表したとき、ガリレオは「経度を知る方法」をフェリベ3世に書き送った、とも言われている。
 
ニュートン時計を否定、経度法

経度法が制定されてからというもの、賞金めあての連中にすっかり包囲されたようなものだった。
お門違いのアイデアが続々評議員会に寄せられた。たとえば舵の改良法、円を四角にする方法、円周率の出し方、など山のようなアイデアを受け取った。
「人間貧すれば鈍す」である。欲に駆られると恥も外聞も無くなるらしい、こうなるとマスコミも面白可笑しく書きまくった。
「彼に脳みそらしきものがあったにせよ、その中身はきっとヒビ割れしてしまっているいる!間違いない!...」などと書くまくり競争相手を喜ばせて世間を楽しませていた。
まず経度発見をめざす連中にショックを与えたのがイギリスのべバリーに住んでいたジェリミー.サッカーだった。
彼はこう言った「フォノメーター,パイオメーター、セレノ...数々あれど、このクロノメーターに比べりゃ物の数ではない」と。
確かに賞金稼ぎに登場してきたこのクロノメータそのものは、触れこみ程ではなかったにせよ新しい工夫が二つあった。
真空のガラス容器に入れたこと、それとぜんまい時計のネジ巻きに工夫を凝らし、巻いている時も動き続けるようにした、さらに羅針盤のように水平が保たれるようにジンバルで支え、嵐の時に備えている事であった。ただ温度変化の補正に弱点があり補正表を作ってあるが、船の上では面倒くさいので嫌われてしまった、サッカーも承知していた。
しかし好条件のときで、一日6秒の誤差まで漕ぎ着けたのです(3.5等賞くらいかな)。
こうしてサッカーの冷やかし半分で付けたクロノメーターなる造語が今なお使われている。
サッカーの提案書は評議員会の審査対象となり、制定初年度のなかでは、かなりまともであった。しかし経度法の基準にのった物でなかったので採用されなかった。
 
 
賞金めあて、時計など続々
賞金めあて、時計など続々

ハリソンの時計
1735年、経度発見をめざす連中にとって完全にショックをうけた。
正確な時計が無名の時計職人ジョン.ハリソンによって作られた。
特に天文学者はショックを受けた。ニュートンでさえ正確な時計は今後も出来ないだろう、と断定していたくらいだからです。
当然、いずれ賞金は天文学者が受け取るハズと思い込んでいたから、大変です。この時計を叩いて狂いを生じさせる反則技をやりたいほどくやしかったのです。
経度評議委員会のメンバーに学識者がいっぱいいたから、無名のハリソンは徹底的にイビラレ、死ぬ間際までいじめ抜かれた(難癖をつけては賞金を渡さなかったのです)。
それはさておき、ジョン.ハリソンの前半生についてはほとんど、わかっていない。
リンカーン、エジソン、フランクリンに匹敵するくらい貧しい出であり、まともな教育は受けていない。
しかし、エイブラハム.リンカーンを思わせる貧しい出自だったハリソンは創意工夫の才能と勤勉さで30代で世界の注目を集めるまで、どこで技術を身につけ、勉強したか、ほとんどわかっていない。
幼いころ父親から木工仕事を習い、どこで習ったかビオールを弾き教会の聖歌隊指揮者にまでなっている。
10代になったジョンはパロウ教区の牧師から本を貸してもらい読破している。
ケンブリッチ大学の数学者の講義録を写しこみ、自分で注釈付の写本「ソーダーソン氏のメカニクス」を書き上げている。
運動の法則を理解するため図表まできれいに写し、自分の所見を余白に書き込むまでになっている。
最初の振子時計は1713年、まだ20歳前に、だれにも習わず作っている。どうやって作ったか分かっていない。
ほとんど木製で作られ、歯車はオーク材の木目をうまく利用し壊れないように設計してあった。
この地区に時計職人はいなかったので、なおさら不思議である。
ハリソンの時計

ハリソンは1713年に引き続き、1715年と1717年にも同じような時計を作っている。
振子や大きな枠は無くなってしまい、今はギルドホール博物館に心臓部の一部が保管されているにすぎない。
時差調整表も残っていて展示してある。
日時計からわかる「真太陽時」24時間毎に正午を打つ時計で計る「平均太陽時」との差を調整するものである、昔の人は日時計が一般的だったので1日24時間よりダンダン短くなったり長くなったりするため、それに合わせる調整表が必要だった。
今ではグリニッチ標準時(平均太陽時)に一本化され、日時計は日常的に使われることも無くなった。
経度法の賞金の話はたぶんイギリス第三の港、ハルがハリソンの家から近かったので、すぐにうわさが伝わり、ハリソンの耳に何度も聞かされ育ったのではないか、自然と時計を作って腕をあげていき、自然と挑戦する気持ちになって行ったのではないか。
1720年ごろ、ハリソンは時計職人として地元で名を知られるようになりいろんなところから依頼を受けるようになっていた。
ブロックルズビー.パークにある邸宅に新築された厩の塔に時計を作って欲しいと言う依頼をうけた。
 
ハリソンの振子時計(木製)
ハリソンの振子時計(木製)

270年以上休まない時計
1723年ころ完成したこの時計はブロックルズビー.パークで、いまなお時をつげている。
ハリソンにとって、この塔はいつも眺めながら育った慣れ親しんだ場所でもあった。
これまで教会の尖塔で鐘を鳴らしていたハリソンは今度は鐘にとって代わって、正確な時間を市民の人達に知らせなければならない。
時計作りを指揮しながらも、約3年を掛けようやく完成した。
この時計は1884年に調整のため数時間とまっただけで、実に270年以上休みなく動いていることになる。
優秀な大工がかかわったのでしょう、精巧なキャビネットから歯車装置まで素晴らしい出来に仕上がっている。
たとえば潤滑油がなくても動くように熱帯産ユソーボクを使い自然に油がしみでて、油を差さなくてもよいのだ。慎重なハリソンはなるべく錆のでる鉄や鋼をつかわなかった。
このようにして木材に精通していたハリソンの凄さはむしろ現在のほうが高く評価されている。
X線などでこれらの木材の性質の情報を確認しても、ハリソンの選択の正しさがはっきり証明される。ハリソンの知識には、ただただ驚かせられる。
270年以上休まない時計

ハリソンの弟で兄にひけをとらない職人だったジェームズと組んで1725年から27年までのあいだに二個完成させた。
署名したのはジェームズでハリソンの名前はどこにもない。
たぶん年若い弟を世に出すために、あえて自分の名前を載せなかったのだろう。
正確さを保つため新しい仕掛けが二つほどあった。
グリットアイアン振子(金網のような)すなわちグラスホッパーと呼ばれ熱の伸縮を相殺するよう異なる金属片を組み合わせ、長い振子の伸び縮みをなくそうと考えた。
手製の天体追跡装置を作り、近所の煙突のうしろから出てくる星をキャッチし毎日観測した結果、前日より三分五十六秒きっかり自作の時計がはやくなっていった(太陽時なので)。
一ヶ月テストの結果、ハリソン兄弟の時計は一秒しか狂わなかった。
ギルドホール博物館でいまも動いている。
 
 
 
弟と作ったグラスホッパー
弟と作ったグラスホッパー

初挑戦とハレー
素晴らしい正確な振子時計を作っていたものの、海上では役にたたないことはハリソン自身よく知っていた。
1727年ころから船舶用時計に挑戦する気になってきたらしい。
すでに潤滑油や摩擦の少ない機構やグリットアイアン振子を開発していたので、地上では押しもされない時計職人であったが、しょせん陸上の話である。
やはり海上を征服して、はじめて世界一の時計職人と呼ばれる!なりたい!世界一の時計職人に〜、そう思ったかどうかはわからない。
船舶時計の製作にとりかかった。
それから四年後、設計図面が満足できるものになったので三二〇キロはなれたロンドンへ向かったのです。
ロンドンに着いたが、どこに経度評議員会があるのか、道行く人に聞いてもわからない。
評議員会のメンバーに、かの有名なエドモンド.ハレー博士の名前を思い出しグリニッチの王立協会へ向かった。
運がよかった、第二代目になったばかりのハレーはたいていの人に好かれ、また部下にも親切だった。
ハレーは親切に応対し、ハリソンのアイデアを熱心に聞き耳を傾けた。
しかし評議員会のメンバーの大半は天文学者、数学者、航海者といった、おえらいさん達で構成されているため、議題にもあげてもらえないだろう。と確信せざるを得なかった。
そこで頭のカタぁーい連中の餌食になるよりは、と有名な時計製作者のジョージ.グラハムを紹介した。
後に「正直者のジョージ.グラハム」と呼ばれるほどの人物で、彼なら少なくても海上時計のこのアイデアの優劣を判断でき、設計の細かい点を理解出来る。
ハリソンは盗用を恐れたがそれに従うしか道はなかった、グラハムは一日ハリソンと話をするうちに、すっかり応援する気になった。
(最初顔を合わせた時はつれない態度であったが、やがて話が進むうちに大きな驚きを見せるようになった)
夜の八時になっても話し込み、田舎から出てきた大工に過ぎないハリソンに夕食までごちそうした。そのうえ大金まで貸し与え「利息はいらない、返済はいそがなくてよい」と気前よく現金を手渡した。
(もし数年前だったら、初代王立天文台長ジョン.フラムステェードの時代だったら間違いなく門前払いになっていた。ハレー博士は心の広い人だった。その点運がよかったといわざるを得ない)
 
 
 
 
初挑戦とハレー

それから五年、ついにハリソンは船舶用時計を完成させた。
ピカピカ光る真鋳製のこの時計は次ページ図(次のH-1写真)の通り、これが時計?と思うような見たことも聞いた事もないような物だった。
ハリソン兄弟はこのH−1をハドソン川の荷船にのせて、実地で試してみた。成功であった。
1735年約束どおりジョージ.グラハムのもとに時計を届けた。ハリソンの来訪を喜んだグラハムはこの素晴らしい海上時計を王立協会へ持ち込んだ(経度評議員会ではイビラレるかもしれない..からかな?)。
王立協会でH−1はおおいに賞賛され、ハレー博士をはじめ4人の特別会員の同意を得られたので推薦状をしたためることにした。
これだけ鳴り物入りで宣伝されたにもかかわらず海軍はなかなか試験しょうとしなかった。
はや一年すぎた。
ある日突然、海軍からスピット.ヘッドへ持っていくようハリソンに命じた(経度法では西インド諸島へ..となってるが)。
当時の第一海軍卿が司令官ブロクターに手紙をおくっている。
「貴殿の船にのせる時計はロンドンでそれをみたすべての数学者が最高と認めている...そこでかれを丁重に扱い、親切にするよう要請する」云々と手紙にしたためている。
そしてハリソンは船に乗った。
ブロクター船長はただちに返事を書いた。
 
 
 
正直者グラハムと約束
正直者グラハムと約束

 H-1の試験航海
ブロクター船長は返事をただちにかいている。
「閣下、例の装置はわたしの船室に置き、彼が観察しやすいように最大限配慮いたします、彼は非常にまじめで、控えめで、その上たえず襲ってくる衝撃や動きに一生懸命に立ち向かっています。ひょっとすると不可能を可能にするんじゃないか、という気にさせられます云々」という内容で送っている。
ハリソンは船に弱かった、ほとんど甲板の手すりにつかまり苦しんだ。
しかし時計はこの荒波にも正確に時を刻んでいた。幸い悪天候のため一週間でリスボンに到着した。
ところが入港直後にブロクター船長が航海記録も書き上げないまま急死した。
別の船の司令官ロジャー.ウィルズに命令がきた「ハリソンを連れてイギリスへかえるように」というものだった。
悪天候の中出航1ヶ月、ようやく陸がみえてきた、ハリソンの推測どうりそこはペンザンスのリザード半島だった。
いたく感銘を受けたウィルズ船長は、のちに自分の誤りを認め時計の正確さをたたえる証言をしている。
六日後、経度評議員会が創立二十三年目にしてはじめて召集された。
 
 
 
 H-1の試験航海

ハリソンは時計を持って評議員会の席へ姿を現した。ずらりと並んでまっていた。
そこにはハリソンの支持者ハレー博士はじめ第一海軍卿、手紙を手渡したノリス提督、ケンブリッジ大学天文学教授ロバート.スミス、オックスホード大学天文学教授ジェームズ.ブラッドリー、そして政界から下院議長やソロモン卿がいた。
ほとんど賛成にまわることは間違いなかった、誰一人反対する者もいないほど凄い時計であり、賞金の二万ポンドを出してやりたくてくてみんなはウズウズしていた。
ハリソンはみんなに説明しながらも「弱点部分を改良すれば、もっと正確な時計を作ることができます、全体的に小型にすることもできます」
だまっておれば二万ポンドもらえ貧乏ぐらしから、ぬけれたものを、職人肌のハリソンはその道を選ばなかった。
二万ポンドを辞退したのである。
その代わり五百ポンドの資金援助を願い出たのです。もっと正確な改良版の時計をつくることに固守したのです。
評議員会はハリソンの申し出を拒否することも出来ず、申し出をを認めた(それも半額の250ポンドで)。
 
 
はじめての経度評議員会
はじめての経度評議員会

2作目のできばえ
1741年H-2時計は完成した。
H−1に負けず劣らぬ優秀なできばえだった。正確さはさらに磨きがかかり、新しい工夫がされていた。(やはり、H-1と同じようにもう1度挑戦させて欲しいと懇願している。)
1741年から42年かけて王立協会の報告書によると、何時間も強い力で揺さぶるテストにもビクともしなかった、ほかに何人かテストを受けたものもあったが問題外であった。
H-2だけが協会の全面的な支持を得ることができた。
ここまで賞賛されてもハリソンは不満で不満でしょうがなかった。
協会がいくら賞賛しょうが、自分が納得しなければ満足できなかった。
もっともっと良い物ができるはずだ、と48才になったハリソンはロンドンの工房にひきこもった、もちろん3作目に挑戦するためである。
そのあいだズーッと脚光をあびていたのはH-1だった。
正直者のグラハムのお店に展示してあったので、一目見ようとあっちこっちから大勢の見物人がやってきた。
フランス王室付き時計製作者ル.ロワも絶賛している、そのライバルであるスイス生まれのベルトーも見物にきて驚嘆している。
しかし、これより19年間ハリソンは奨励金を受け取りに顔を見せるほかは、ほとんど工房にひきこもりH-3時計の製作に埋没していくことになる。
19年間もの間、ひきこもりっきりになってしまった。
 
2作目のできばえ

一七三〇年代から六〇年代にかけて突如二つの方法が完成に向かって、競いながらも近づいていった。
時計じかけの方法と天体じかけの方法である。
一匹狼のハリソンは完全に迷路にはまり、もがき苦しんでいた。
一方天文学や数学の専門家は月こそが経度を知る最善の方法」と宣伝し商人や船乗り、議会に働きかけていた。
一七三一年に月を測る機械、四分儀がイギリスとアメリカで同時に発明された。
イギリス人のジョン.ハドリーは地方の名士で、これを王立協会に提出している。
そしてアメリカ人のトマス.ゴッドフリーもおなじころ同じ装置を完成させた。
二人ともおなじ扱いで科学史に載っている。
それまではアストロラーベ、直角器、背杖などで太陽や水平線上の星の高さを測り、経度を計算していた。
しかし二枚の鏡を使った新工夫の四分儀のおかげで、二つの星の高度だけでなく、その間の距離まで直接測定できるようになった。
おまけにハドリーの四分儀には人工の水平線が付いていたので、真っ暗な時でも、これが、おおいに役立った。
これにより昼間は太陽と月の間の距離(角距離)、夜は月と星とのあいだの距離(角距離)を正確に測れるようになった。
この四分儀が必要だった背景には、天文学者の地道な努力により星の位置をひとつひとつ確定していった。これにより正確な天体図ができあがりつつあった。
これを利用して正確な経度を出すには、正確な観測機器の発見が必要だった訳です。
 
天体じかけも完成に
天体じかけも完成に

ニュートン対決フラムスティード
ニュートンはいらだっていた。
天体じかけの方法で解決できるはずだ、経度測定法の鍵は空の星が握っているはずだ、何世紀も前から繰り返し提案されている月距法は天文学の発達に伴い、だんだん支持者を増やしてきた。
それでもデータが足りず、フラムスティードの天体観測が一段落を待つより手がなかった。
フラムスティードは天文台長時代、天体図作りに四〇年もかけていて公開せずしっかりデータをグリニッチにしまいこんでいた。
ニュートンはどうしても欲しかった。
ニュートンとハレーは一計を案じ王立天文台からフラムスティードの観測記録を手に入れ彼の許可を得ずに1712年に天星録を出版した。
これに腹を立てたフラムスティードは400部のうち300部を回収して焼き捨ててしまった。
このようなごたごたがあったにせよ、だんだん天体じかけの方法は一歩一歩確実に完成に向かっていった。
ニュートンの死後、ハレーは1720年から40年まで王立天文台長を勤め、たゆみなく観測し続けた。
特に月の軌道は地球のまわりを不規則な楕円を描いて回っていて又18年周期で変わるので少なくとも18年間の観測が必要だった。
ハレーが彗星の再来を予言して、その名を不動のものにしたのは天文台長に就任する前のことだった。
 
 
ニュートン対決フラムスティード

月距法の完成は目の前であった。
まず天文学者が星ボシの正確な位置を確定しつつあった。
もう一本の柱は船の上で月と太陽、月と星の距離を測る正確な機器(四分儀)も完成していたので観測の問題もクリアしていた。
もうひとつは観測したデータからできるだけ早く、この位置の経緯度がわかる早見表、すなわち天体暦を作ることであった。
これがむずかしかった。
なにせ月の軌道は複雑で、これまでのデータだけでは、なかなか未来の予測を確定しずらかった。
どうしょう。と、なやんだブラッドリーはドイツの地図屋さん技師トビアス.マイヤーの作った月の天体暦を見つけた。
自分のグリニッジで観測した星ボシの観測結果と見比べた、おどろいたことにピッタリ合っていたのである(角距離にして1.5分しか違わなかった)。
マイヤーは、かの有名なスイスの数学者レオンハルト.オイラーに四年にもわたり親心に協力を得ていた。
またオイラーは太陽、地球、月の相対的な動きを簡単で美しい公式で表現したのである。
マイヤーはこれにより経度法の1等賞に、一歩先んじたといえる。
ゴッドフリーは手書きの運行表をマイヤーから受け取り、早速1757年海上で使って見ることにした、7年戦争による中断があったにせよ、イギリスの沿岸で数度検証、有効性は十分であった。
月距法は急速にたかまっていった。
マイヤーは1762年、39歳の若さで死んだ、が評議員会は彼の業績を認め3000ポンドを送っている。
オイラーにも、根拠となる定理を発見した功績により300ポンドが与えられた。
 
 
 
天体じかけが完成目前
天体じかけが完成目前

1757年、H-3時計完成
ジョン.ハリソンは19年間かけて、1757年ようやくH−3を完成させた。
高さ60cm幅30cmのほっそりした形の海上時計となった。
当時としては極限まで切りつめた小さい時計である。
ハリソンは性能にはまだまだ満足したものでなかった。
この小ささ、だけは満足するものであった。
このコンパクトな形にするには、どうしても専門的な技術が必要であったのである。
ハリソンはロンドン中の優れたプロ職人の手助けがどうしても必要になり、いろんな人と知り合いになり、仕事を依頼した。
その中からもいろんな技術も学び、新たな発見を見出していった。
その中の一人にジョン.ジェフェリ−ズという時計エンジニアがいた。
ハリソンのために、ポケットに入る小さな懐中時計を作りプレゼントした。
ハリソンは驚いた、このような小さいサイズでも、そこそこの精度で動いている。
ハリソンの設計を見習って作ったのだろうこの懐中時計は、実に正確に時を刻んだ。
ハリソンの子孫の話によれば、いつもポケットにこの時計が入っていたという。
もっと小さくするにはどうしたら良いか、いつも考えていたのであろう。
 
1757年、H-3時計完成

いつもジェフェリーズの時計をポケットに入れていた。この小さな懐中時計を肌身離さず持ち歩き、どのように改良すれば夢の時計ができるか、を考えていたのだろう。
そして、ついに1759年、夢の懐中時計H−4を完成させた。
自分をほめてやりたいくらい、大満足なものであった。そして賞金を手にすることになる。
世界中は歓喜した。
そして一躍英雄となったのです。
世界中から、ひっきりなしに展示の依頼が舞い込んできた。
展示に次ぐ展示が何十年も続いたため、運搬中にあっちこっち、ぶっつけられ、だんだんと傷んでいった。
世界でただひとつの宝物をこれ以上傷をつけてはイギリスのなおれとなる。
ついに展示の中止を博物館は決意した。
この貴重な宝物を後生に残すため、ロンドンの海事博物館でのみ展示するにいたった。
その後一回も外に持ち出すことがなく、移動することもなく現在に至っている。
 
 
 
 
 
 
 
完成!夢の時計、H−4
完成!夢の時計、H−4

成功の影に学者のイジメ
しかし、このH−4が世界中の人々から賛美を浴びるまでは、それはもうなんと言うかものすごいイジメや妨害にあった。
時津風親方(元小結双津竜)のビール瓶撲打イジメどころでない。
天文学者がこぞってイジメに加わったのです。
その先鋒としてまじめ一徹秀才天文学者マスケリンに代表されるイジメであった。
秀才のこの私が、大工あがりの時計職人に負けるはずがない、たまたまのまぐれで、できただけじゃないか。
徹底的に検査してやろう、かならずボロをだしてやる〜う..と。
 
成功の影に学者のイジメ

賞金を誰に与えるか審議する評議員会はようやく重い腰をあげた。
H-4の試験航海がようやく実現することになった。
ハリソンの息子ウイリアムは船に乗り込んだ。
評議員会はウイリアムがごまかさないよう箱にH−4をいれ合鍵を4つ作りジャマイカ総督、船長、副官、ウイリアム、に渡し管理しウイリアムを徹底的に監視した。
監視役になった天文学者達はカリブ海のバルバドスの島に先回りして、待機していた。
賞金を取られたくない、くやしい〜ぃ。
ナサニエル.プリスの腹心デビル.マスケリンもそこにいた。
地元の人達に月距法が経緯度測定法の有望な解決策であり、ハリソンの時計なんて問題外である、と吹聴してまわっていた。
マスケリンの話を耳にしたリンゼイ船長とウイリアムは本当にこの時計の有効性を公正に判断してもらえるものか疑わしい、と口にした。
それを聞いたマスケリンは完全に頭にきたのである。
星の観測もノルマに入っていたが、頭にきてしまったので、星の観測も失敗してしまった。
その日は雲一つない観測日和だったのに...(その場にいた人達は口をそろえていっている)。
 
 
マスケリンが悪者の代表
マスケリンが悪者の代表

マスケリンの執念
マスケリンの師匠でもあるプリスも輪をかけて、ハリソンを毛嫌いしていた。
代四代王立天文台長に就任したプリスはハリソン親子を標的にしていた。
前任者のブラッドリー同様、月距法の信奉者であった。
「H-4はすばらしいと言う評判だが、たまたま偶然にそうなっただけだ」といいはった。
しかし、あまりにも評判が良いものだから、だんだん不安になり、1763年になると時計の理論を説明しろ、としつっこくせまった。
もし本当にすばらしい時計だったら国家の損失であり世界中の人達から物笑いに合う、マズイ〜、と言うことで時計の全容をしっておく必要に迫られた。
二年後、五代王立天文台長にマスケリンが就任した。
なおさらハリソンが窮地に陥ることになる。
 
マスケリンの執念



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